2021年04月14日

任那日本府説の根拠。古代朝鮮は日本人の支配下にあった?韓国にある10基の大型日本式前方後円墳の存在。


ネット上の記事はしばらくすると消えてしまうことが
多いので、自分が興味を引かれた記事をここに
自分用の記録(備忘録)として保管しておきます。




古代朝鮮は日本人による長期支配下にあった?任那日本府説の根拠と言える10基の日本式大型前方後円墳の存在。


更新日 2021年12月24日







●全羅道屈指の国宝級古墳、被葬者は倭人?百済人?
登録:2021-10-05 08:24 修正:2021-10-09 13:01
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[ノ・ヒョンソクの時事文化財] 国立光州博物館「新徳古墳特別展」

全羅南道の咸平礼徳里にある新徳古墳の1990年代の調査当時の姿。前方が四角で後方が丸い古代日本特有の前方後円墳(長鼓型墳墓)を示している。墳墓の各部分に割れた石を敷きつめた跡(葺石)が見え、墓の周囲を溝で囲むのも倭式の前方後円墳の特徴だ//ハンギョレ新聞社
 「調査に行った墓が盗掘されていました!」

 学芸員のソン・ナクチュン氏は青ざめて電話を取って報告した。彼の頭は、少し前に目撃した古代の墳墓の片側に開けられた盗掘の穴の惨状でいっぱいだった。30年前の1991年3月26日午後、ソン氏を始めとする国立光州博物館の職員たちは、全羅南道の咸平礼徳里(ハムピョン・イェドクリ)の丘にある6世紀初めの大型墳墓を測量するために向かった。7年前の1984年に発見された新徳古墳1号墳だった。古代日本特有の前方後円墳、つまり前方は四角で後方は丸い、鍵穴あるいは長鼓型の墳墓形式であり、その年の朝鮮半島における前方後円墳の最初の発見事例として報告された海南長鼓峰古墳とあわせて、学界の特別な注目を集めた。しかし、7年が経過しても実測さえ行われずに放置され、学界では正体をめぐる噂だけが広がった。事情を知る博物館の人々が長年の宿題をするかのように実測を行うために向かったところ、数日前に暴かれた盗掘の穴を見つけたのだ。


1990年代に新徳古墳1号墳の内部を調査した際に床で発見された木棺の材料。日本産と見られるコウヤマキだ。墓の内部にコウヤマキ製の木棺があるのは武寧王陵や益山双陵など百済高位層の葬法であり、被葬者が現地人や百済系の人物であることを示す根拠となる遺物だ//ハンギョレ新聞社
 墓の中は悲惨だった。盗掘犯は石室の南西側の壁を突き破っていた。内部の遺物をむやみに動かし、金属付きの工芸品や大きな土器類などのみを持ち出し、残りは放り投げてあった。その弾みで石室の壁が損なわれ、床の遺物は踏まれて砕けていた。遺体を収めていた木棺の棺材などと、頭骨や歯などの遺骨が混じりあい、盗掘の穴の近くには鉄器や陶磁のかけらが散らばっていた。副葬品は尋常ではなかった。つぶれはしていたが、冠帯に木の葉の装飾が珠の荘厳とともに付いていた金銅冠の破片は孤高だった。環頭大刀や緑色や黄色のガラス板を重ねて付けていた外国産の練理紋の珠などは、公州(コンジュ)の武寧王陵を思いださせるような東南アジア産の高級品だった。石室の入口の羨道(墓道)の床からは、祭祀で使われた真鯉の骨の入った壺や様々な供え物を入れたふた付きの皿(蓋杯)も大量に発見された。全羅道屈指の国宝級古墳が盗掘されたという急報は、政府を驚かせた。国立中央博物館のハン・ビョンサム館長(当時)から直接報告を受けたイ・オリョン初代文化部長官は、検察総長にすぐ電話をかけ、緊急捜査を要請した。


新徳古墳1号墳の石室から出た金銅冠の破片。六角形の模様の中に花模様が刻まれた細長い土台の上に木の枝の形の装飾を付けた構造で、九州や畿内地域の高級古墳から出土する冠とほとんど同じだ。被葬者が倭人とする説の有力な根拠の一つだ//ハンギョレ新聞社
 このような内容が報道されると、怖気づいた盗掘犯たちは、旧朝鮮総督府の建物にあった国立中央博物館の東門に盗掘した鉄器類の箱を置いて去っていった。回収した箱の中にあった遺物は、鉄器の刀の柄だった。墓の内部に残っていた刀の刃と合わせてみるとぴたりと合い、副葬品だと確認された。犯人は1993年9月に捕まった。土器や兜など65点の「百済の遺物」を持ち去っていたことが明らかになった。

 新徳古墳には、朝鮮半島の前方後円墳のなかでは最も多くの副葬品が残っていた。博物館も盗掘後の9年間に体系的な調査を行い、相当な研究成果を確保した。しかし、30年間も報告書を出さず、出土品の展示もなかった。理由はいわゆる「倭色」のためだ。二つの山の形の模様を立てる土台を着せた金銅冠や環頭大刀、三角形の鉄帽など、韓国と日本の学界で倭系だと同意できるような遺物が続々と明らかになると、4〜6世紀に日本を統一したヤマト政権が任那日本府を設置し、朝鮮半島南部を支配したとする植民地史観の歴史家や日本の極右の主張の根拠として悪用されるだろうという懸念が生じた。朝鮮半島の前方後円墳の研究も不十分な状況であり、公開した場合、日本の学界と論戦する相手になるのは難しいという懸念もあった。


新徳1号墳の石室から出た環頭大刀(一番上)。鉄棒の上に銀を被せてより合わせて作った輪で刀先を飾ったこの刀は、朝鮮半島にはなく日本列島の支配層の墓からのみ出土する最高級の遺物だ。金銅冠と共に新徳古墳の被葬者が倭人とする説を裏付ける根拠となる遺物だ//ハンギョレ新聞社
 そのような事情を考えると、7月19日から国立光州博物館で行われている新徳古墳特別展「秘密の空間、隠された鍵」(24日まで)と報告書の発刊は、時すでに遅しだが、嬉しい知らせだ。朝鮮半島の前方後円墳についての初の企画展を設け、出土品を学界に全面公開する場まで用意したのは、考古学史上、意義深い事件だ。学界の研究能力が成熟したことを教えてくれるものだ。

 日本に4000基以上残っている前方後円墳は、歴史的な誇りが込められたシンボルだ。3世紀中頃から7世紀初めまでの古墳時代に、現在の大阪一帯の近畿地域に拠点を置いたヤマト政権が、各地の首長と連合して統一国家を建てた歴史的な指標だとされている。近畿から始まった前方後円墳が九州や関東など全国各地で広がっていく過程が、列島統一の過程を端的に示しているというのが定説だ。


奈良にある6世紀中頃の丸山古墳。日本の古墳時代末期の最後の前方後円墳といわれている//ハンギョレ新聞社
 そのような前方後円墳が、全羅道の西南海岸で現在までに14基確認されており、中心格である新徳古墳から、なぜ倭系の金銅冠や最高級品の刀が中心的な副葬品として出てきたのかについては論争になっている。数が少なく、期間も5世紀末から6世紀初めの50年に過ぎないが、被葬者が倭系の実力者だと解釈する余地が大きい。日本の学界で、ヤマト政権が朝鮮半島に影響を行使したという推論に飛躍されることもありうる。廃棄された任那日本府説をあえて提起する学者はいないが、長鼓型墳墓の研究成果の公開は、日本の学界との解釈の摩擦を呼ぶ可能性が高い。韓国内の学界も墓被葬者をめぐり、倭人説と現地人説、百済人説が交錯している。墳墓の形と構造、中心的な副葬品は倭系だが、もう一つの手がかりであるコウヤマキ製の木棺の遺物は、百済高位層の葬法だからだ。

 博物館の展示は、より積極的な解釈と説明の場を設けられなかった限界も示している。金銅冠と刀と大量の土器、棺材をずらりと並べて置いている遺物報告の形式に留まっているという話だ。前方後円墳については、韓国と日本の学界での議論がなぜ大きくなったのか、任那日本府が及ぼした影響は何であるのかなどについて、歴史的な経緯を詳細に解き明かして説明していない点が不自然だ。史料不足もあるが、長期的に落ち着いてファクトを蓄積し論議していくには、大衆に前方後円墳の歴史的実情を十分に伝え、被葬者の議論を進めていくべきではないだろうか。近代の民族感情による制約を受ける韓国と日本の学界は、今後互いに交流し、共同理解を探る求同存異の姿勢で会うしかない。

光州/文・写真、ノ・ヒョンソク記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
https://www.hani.co.kr/arti/culture/culture_general/1013853.html
韓国語原文入力:2021-10-05 04:59
訳M.S





●「これ倭人の墓じゃね!?」韓国が朝鮮半島最大の古墳を発掘直後に埋めたワケ

韓国人の作ったファンタジー歴史と現実が一致しないときは、
ファンタジー歴史の方が優先され、現実は無かったことにされる。

2021年04月01日 11時51分

日本の前方後円墳は3世紀からある(写真はイメージ)
 外務省の船越健裕アジア大洋州局長と、韓国外務省の李相烈(イ・サンリョル)アジア太平洋局長は1日、東京都内で対面による局長協議を開催。元慰安婦らの訴訟や日本の高校教科書の記述内容などを巡る2国間問題などが議題になりそうだ。様々な歴史問題で衝突する日韓だが、とんでもないことが起きていた。

 韓国紙「ハンギョレ」(電子版)は先日、「朝鮮半島最大の古代の墓 開けた直後に閉じた理由は」とのタイトルで「朝鮮半島で最大の古代の単一の墓が、新年の始め(日本語版原文ママ)についに開かれた。考古学者らは5〜6世紀の日本の古墳とそっくりな墓の構造に驚き、すぐに土で覆われ再び埋められてしまったことにがっかりした」と報じた。

 全羅南道にある韓国最大の古墳「長鼓峰古墳」を発掘したら、日本の前方後円墳とほぼ同じだったため、埋めてしまったというのだ。

 今回の古墳は6世紀前半のものと推定されるという。日本の前方後円墳は3世紀からあるので、これは倭人(日本人)の墳墓の可能性がある。

 韓国事情に詳しい文筆人の但馬オサム氏はこう語る。

「『日本書紀』に出てくる、古代朝鮮にあったヤマト政権の出張政府である『任那(みまな)日本府』の存在を肯定する材料になりかねません。韓国の歴史観からするとそれは我慢ならないことです。だからといって現実に存在する古墳を埋めて、なかったものにするというのは、かの国は学術よりも“かくあれ”という願望が優先するということです」

 韓国メディアなどでは、日韓併合だけでなく、豊臣秀吉の朝鮮出兵、果ては鎌倉時代の倭寇まで持ち出して、「日本はそんな昔からわが国を侵略、蹂躙してきた」と非難する傾向がある。

 但馬氏は「いっそ、もっとさかのぼり、任那日本府やあるいは神功皇后の三韓征伐を日本の朝鮮半島侵略行為といって非難するかと思えば、これに関しては絶対否定します。『われわれの偉大な先祖が、文明も文化もない古代の倭人に支配されるわけがない』というのが彼らの言い分です」と指摘している。









●海南長鼓山古墳

朝鮮半島最大の古代の墓、その当時の日本式の前方後円墳と完全に同一型式かつその当時の日本で作られた墳墓と比較しても大規模だった。
つまりこの墓はその当時朝鮮半島で長期にわたり、かなりの勢力があった日本人が作ったか、又は日本人が墳墓の構造を指示して朝鮮人に作らせたかのどちらかだ。
開けた直後に閉じた理由は韓国人自体がこれは当時の日本人支配者の墳墓に間違いないと認識したせいだろう。まさに都合の悪いことには蓋をしたと言える。また日本の墳墓の形式である大型の前方後円墳が古代の海上路の要所である全羅南道の海岸一帯に10基存在するという事実は、1980〜1990年代に相次いで確認されたそうだが、相当な長期間にわたり朝鮮半島を支配していた支配者一族か有力者の墳墓だろう。当時の朝鮮半島の本当の支配者は誰だったかを裏付ける最大の資料だ。日本式墳墓が10基もあると言うことは当時、日本人が何代もの長期にわたり、その当時の朝鮮半島を実質的に支配していたとみるのが妥当だろう。また日本人による長期安定政権ではない限り、このような長期工事が必要な大型墳墓を作ることはできなかったとも考えられる。


任那日本府
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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任那日本府(みまなにほんふ)は、古代朝鮮半島にあったとするヤマト王権の出先機関ないし外交使節、またその学説。日本書紀を中心に、複数の古文書にそれらの存在を示唆するような記述がある。特に1991年、日本の「前方後円墳」と類似した様式の墓が朝鮮半島南部で発掘され、倭系集団の存在が浮上した。


1500年前の朝鮮半島には「任那」と呼ばれる地域があった。古代日本人の居留地、交易の中心地であり、半島中南部を軍事的に押さえる要衝の地でもあったが、韓国ばかりでなく、いまや日本の学校教育でも「任那」はほとんど教えられず、長らく無視されてきた。かつて日本(倭)は新羅や百済を臣民としていた。それどころか、百済や新羅が東洋史に登場するよりも100年以上前から、倭国が半島南東地域を管理していたことは、中国の史書に記されている。高句麗・広開土王の生涯を刻んだ「広開土王碑」の碑文にも「倭、任那」の記述がある。碑文の不毛な改竄論争も最古の拓本発見で終止符が打たれた。そして記録に残るかぎり、「日本府」という名を最初に使ったのは倭人ではなく新羅王であった。


好太王碑文。
好太王碑(こうたいおうひ)は、高句麗の第19代の王である好太王(広開土王)の業績を称えた、現在の中華人民共和国吉林省通化市集安市に存在する石碑である。広開土王碑(こうかいどおうひ)とも言われる。付近には陵墓とみられる ...

碑文の墨水廓填本 1882年頃作成、東京国立博物館蔵
碑文は三段から構成され、一段目は朱蒙による高句麗の開国伝承・建碑の由来、二段目に好太王の業績、三段目に好太王の墓を守る「守墓人烟戸」の規定が記されている。

そのうち、倭に関する記述としては、いわゆる辛卯年条(後述)の他に、以下がある。

399年、百済は先年の誓いを破って倭と和通した。そこで王は百済を討つため平壌に出向いた。ちょうどそのとき新羅からの使いが「多くの倭人が新羅に侵入し、王を倭の臣下としたので高句麗王の救援をお願いしたい」と願い出たので、大王は救援することにした。
400年、5万の大軍を派遣して新羅を救援した。新羅王都にいっぱいいた倭軍が退却したので、これを追って任那・加羅に迫った。ところが安羅軍などが逆をついて、新羅の王都を占領した。
404年、倭が帯方地方(現在の黄海道地方)に侵入してきたので、これを討って大敗させた[5]。
碑文では好太王の即位を辛卯年(391年)とするなど、干支年が後世の文献資料(『三国史記』『三国遺事』では壬辰年(392年)とする)の紀年との間に1年のずれがある。また、『三国史記』の新羅紀では、「実聖王元年(402年)に倭国と通好す。奈勿王子未斯欣を質となす」と新羅が倭へ人質を送っていた記録等があり、他の史料と碑文の内容がほぼ一致しているところが見られる。

この碑文からは、好太王の時代に永楽という元号が用いられたことが確認された。

碑文では、高句麗と隣接する国・民族はほぼ一度しか出てこず、遠く離れた倭が何度も出てくることから、倭国と高句麗の「17年戦争」と称する研究者も存在している[6]。その一方で、韓国などには高句麗が百済征伐のために倭を「トリックスター」として用いただけであると主張する研究者も存在している。

倭の古代朝鮮半島における戦闘等の活動は、日本の史書『古事記』『日本書紀』『風土記』『万葉集』、朝鮮の史書『三国史記』『三国遺事』、中国側の史書『宋書』においても記録されている。また、2011年に発見された職貢図新羅題記にも「或屬倭(或る時は倭に属していた)」という記述があり、議論を呼ぶだろうとした[7]。



海南長鼓山古墳概要
朝鮮半島南端、海南郡南東部において海岸から1キロメートルほど入った標高約30メートルの丘陵上に築造された古墳である[2]。朝鮮半島南部の前方後円形墳10数基のうち最南端の古墳であり、かつ76メートルという墳丘長はそれらのうちで最大規模になる[2]。2020-2021年に発掘調査が実施されている。

墳形は前方後円形で、墳丘主軸を南北線として前方部を北方向に、後円部を平野部に向ける[2]。墳丘は日本の前方後円墳に対して比較的急斜して築造される[2]。前方部北方10メートル並びに後円部南側にはそれぞれ平坦面があり、その削平土を盛り土としたと推測されている[2]。現在までに後円部墳頂・前方部墳頂に現代墓、また墳丘東側に道路が設けられた関係でやや変形を受けているが、全体的に墳丘は旧態を良く遺存した状態である[2]。主体部の埋葬施設は横穴式石室(現在は非開口)で、石室内側にベンガラ(弁柄)を塗るという倭(日本)系の要素は一部に見られるが、玄室平面形は細長方形でかつ羨道が細長く発達しており、全体的に見ると独特な構造が採用されている[3]。

この海南長鼓山古墳は、5世紀第4四半期-6世紀第1四半期頃の築造と推定される[4]。この時期の古墳としては、日本の同時期の古墳に比しても大規模な部類に相当する[4]。一帯は平野が狭く農業生産力のある地域ではないが、海上交通の要衝であり、被葬者はそうした海上交通を掌握する地位にあったと推測される[5]。また周辺一帯に長鼓山古墳以前の在地系古墳の系譜はなく、突如出現する長鼓山古墳に続く形で龍日里葺石円墳・新月里葺石方墳・外島石棺墓などの倭系要素を持つ古墳群が形成されており、これら古墳群の有機的結合の様子が指摘される[6]。

古墳域は1986年2月7日に全羅南道記念物第85号に指定されている[1]。





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ハンギョレ新聞
[ノ・ヒョンソクの時事文化財] 長鼓峰古墳をめぐり考古学界で騒ぎに 日本の古墳に似た構造や祭祀の跡をめぐり議論 「追加発掘後に一般公開」とし、再び埋める 墓の被葬者は百済の統制を受けた倭人? 日本の右翼が任那日本府説の根拠にすることを懸念


最近発掘調査された全羅南道海南郡北日面方山里の長鼓峰古墳内部の石室。遺体を置く部屋への入口の玄門が正面にみえ、平らな板石をいくつか置いた床と砕いた石を整然と積んだ石室の壁面が見える。1990年代までに2回盗掘され、内部の遺物は大部分が失われた

 朝鮮半島で最大の古代の単一の墓が、新年の始めについに開かれた。考古学者らは5〜6世紀の日本の古墳とそっくりな墓の構造に驚き、すぐに土で覆われ再び埋められてしまったことにがっかりした。今年1月、国土最南端の海南(ヘナム)から聞こえた墓の発掘に続く覆土のニュースは、メディアには公開されなかったが、韓国国内の考古学界を騒がせた。

 この遺跡は、全羅南道海南(ヘナム)の北日面方山里(プギルミョン・パンサンリ)の長鼓峰古墳だ。6世紀前半のものと推定されるこの墓の外側の墳墓と石室内部が、去年10月から今年2月まで、馬韓文化研究院の発掘調査により約1500年ぶりに明らかにされた。驚くべきことに、石室は日本の九州の外海岸と有明海一帯で5〜6世紀に造成された倭人貴族の石室墓と、構造はもちろん墓の内部への入口をふさぐ前に行われた祭祀の跡までほとんど同じだった。

 調査団は、後面の封土を掘り、墓の内部に通じる細い通路(羨道)に入り、内側を観察した。調査の結果、床に細長い板石を置き、上側に砕いた石(割石)を整然と積み壁面を作る、古代九州の石室墓特有の構造であることが明確だった。天井と壁面にも、日本の弥生時代以来の古墳の典型的な特徴である赤い朱漆が塗られた跡が残っていた。

 出土品はほとんどが盗掘されていたが、墓の被葬者を明らかにする手がかりとなる遺物が相当数収集された。墓の内部への入口で発見されたふた付きの皿(蓋杯)10点が代表的だ。一部の蓋杯の中にはイシモチなどの魚の骨や肉類など祭礼での食事と推定される有機物の塊も検出された。「日本の古墳で確認された祭礼の遺物と類似の内容物と配置が注目される」と、チョ・グヌ研究院長は説明した。墓の内部を直接調べた慶北大学考古人類学科のパク・チョンス教授は「九州の倭人の墓に入った時と印象がまったく同じだった」と述べた。

 長鼓峰古墳は墳墓の長さが82メートル(溝を含む)、高さは9メートルに達する。皇南大塚などの新羅の慶州の大型古墳より大きい韓国国内最大級の墓だ。外見は日本で古代国家が成立する当時の墓の様式である前方後円墳(長鼓形墳墓)の形だ。前方後円墳は、墳墓の前方は四角い形で後方は丸みのある円形の特徴をとり、日本の学者が名付けた名称だ。日本の墳墓の形式である前方後円墳が古代の海上路の要所である全羅南道の海岸一帯に10基存在するという事実は、1980〜1990年代に相次いで確認された。日本の右派勢力は、4〜6世紀に日本が朝鮮半島南部を支配したという「任那日本府説」を裏付ける物証だと主張した。韓国と日本の学界で、埋葬された人物の出身地が朝鮮半島か倭国かをめぐり大きな議論となった。

 長鼓峰古墳も議論の中で困難を経験した。80年代初め、学界に初めて報告された当時は、自然の地形である丘とみなされた。80年代半ばごろに嶺南大学のカン・イング元教授が発掘許可を申請したが、文化財委員会の許可が下りず、外側の実測しかできなかった。1986年に全羅南道記念物に指定されたが、保存措置がまともにとられず、90年代に2回盗掘された。国立光州博物館が2000年に盗掘の穴を確認し、緊急試掘調査により内部を一部確認したが、公式の発掘は20年後の昨年秋に始まった。

 しかし、墓の石室は2月末に再び埋められた。研究院側は「新型コロナウイルスの防疫のための措置で、5〜9月に墓の周溝の追加発掘の後に一般公開を推進する」と明らかにした。しかし、一部では発掘による波紋も考慮したものだという見方が出ている。調査内容は、朝鮮半島の前方後円墳の墓の被葬者の議論を再び引き起こす公算が高い。過去20年ほどの間、百済政府の統制を受けた倭人官僚や傭兵という説と、日本に移住し現地の墓の文化の影響を受け帰国した馬韓人または百済人という説など、多くの推測が出された。長鼓峰古墳から九州の古墳と瓜二つの構造と鉄鎧の破片や鉄の矢じりなどの武器類が埋められた事実が確認されたのは、韓国国内の学界に負担になり得る。日本の右派学者が再び任那日本府説の根拠にすることがあり得るという懸念まで出ている。

 ソウル大学国史学科のクォン・オヨン教授の助言を思い出したい。「長鼓峰古墳は倭系統の墳墓の構造を有しているが、埋葬された人物を軽々しく断定してはいけません。外形、構造、遺物などを当時の情勢とともによく調べなければなりません。民族主義を越え古代人の観点まで考え、開かれたものの見方でアプローチしなければなりません」

ノ・ヒョンソク記者、写真=馬韓文化研究院提供 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )

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最終更新:3/22(月) 10:22
ハンギョレ新聞
posted by グリーン at 12:05| 福岡 ☁| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする